2011年7月24日日曜日

きやらぼく2011/07


◇藤田踏青
見下ろしている字余りの肖像画
でっち羊羹 暗い処でよく売れる
音楽室をのぞき見る受験生ブルース
情念の手鏡 閉じられたまま
生命線傷つけてみるハウス育ち

◇中村真理
筍や姑の味母の味
友と観る映画の相談半夏生
逢えぬ日の妻と頬張る豆ごはん
合歓の花妻を抱きつつ君を恋う
七夕やあなたの味の飴が欲しい

◇谷田越子
爪先立って心並べ変える風の余裕
不機嫌な空を閃いた言葉思い出せない
振り向けば隠れてしまう月の裏道
過去の何処かを電車が通り過ぎる音する
指で弾けば夜空へ昇った少年のビー玉

◇山本弘美
向日葵八本シンプルな夏至
ひとは愚かで貴くはかない生き物です
魂を背に乗せて蜻蛉どこまで飛ぶか
聖と愚あわせもち地球上の幾十億
枯れるから散るからいとしい花も人も

◇後谷五十鈴
鬱々と山も空をも閉ざした雨期
猛々しい夏の陽射しを影のない風景
難しい世を生きて蔓草小さな花もつ
蛍を待ち窓の灯りも消しておく
梅雨明けの空碧くまやかしの鱗雲

◇阿川花子
何もせず留守番一日が不思議のはやさ
酒房出て六月の十九時を白夜と言う酔
「ゆく処なし」なぜにか思う暮れ切らぬ外
薬変更と朱筆の薬袋の気になる期待
梅雨の潤いか硬い爪難なく切れていく

◇前田佐知子
杏酒ほんのりと三年目のべっこう色
梅雨真っ只中を乾いてゆくどくだみ草
剥ぎたての岩牡蠣冷して青紫蘇とちょうどいい
雲の流れが面白い寝ている位置
二週間早い梅雨明けとゆうカボチャの花

◇斎藤和子
想う人心美しく上弦の月の輝やき
戦は地球の病か今日も何処かの国で
幸子と呼んでも答えなく遠い空の星
珈琲飲んでも一人妹逝ってから一人
やっと起きました妹よどこから見ている

◇天野博之
人生に栞挟んで続きはあの世で読むことに
どうしようもない己れという生き物脱いでみる
罪の意識は冷蔵庫に入れっぱなしのそれっきり
脳中の子午線手をつないで君と渡ろう
熟れたトマトを握りつぶす醒めた不愉快

◇三好利幸
大山黝く一筋雲刷く
掌にこそと頂く月の円さ
炎天暴々草刈機の意思
赤丸熟れて画面炸裂
老女入水参道補修中

2011年7月10日日曜日

「銃を磨く男 蔵岡弘之自由律俳句集」発行

「銃を磨く男 蔵岡弘之自由律俳句集」きゃらぼくの会発行
 800円。希望者は 電話0858-22-2441 同会まで。

 以下日本海新聞2011年7月9付記事より

 「すずしく我を見る死んだ子の写真を直す」「妻が死にその娘と歌をうたっている男」
 突然、子に先立たれ、病む妻をみとり、その哀歌がやるせなく突いてくる。表出された静かな言葉は、読むがままに読む者の心を揺すり、さいなんでくる。
 「鉄の梁の上でずぶ濡れの軍手をしぼる」「息もつかず働き激しく頭を行き交うもの」
 悲しさを胸深く押し沈め、まるで何事もなかったかのごとく、がむしゃらに、しかし淡々と働き続ける男の姿を見る。
 これが、自由律俳句だ。萩原井泉水が『層雲』で提唱し、尾崎放哉、種田山頭火など幾多の俳人を生んだ自由律俳句100年の流れだが、鳥取県中部の地においても、『層雲』に沿った俳誌『ペガサス』『梨の花』『きやらぼく』と続く脈々とした流れがある。
 ふとしたきっかけでその流れに出合った作者が、4年間に詠んだほぼ全ての句、469句をまとめたものが、『銃を磨く男 蔵岡弘之自由律俳句集』だ。一つ一つの句を味わっているだけでは知りえない深いものがあることに、句集として読んであらためて気付く。それは、放哉や山頭火とは異なるが、これも自由律俳句であり、自由律俳句なればこそ詠み得た世界であるともいえる。
 作者の蔵岡弘之氏は、羽合町(現・湯梨浜町)橋津で鉄工所を営んでいた。その人生にはつらく痛々しいものがあったのだが、普段人に語ることはなく、だからこそ自由律俳句を知り得てからは、心の空隙を埋めるがごとく一文字一文字を連ねていったのではないかと思われる。その言葉は平易であり、見詰める視線は鋭く冷徹でたじろがず、しかもいとおしさと優しさも同時に持っている。さながら、引き金を引かない銃の照星と照門を磨き続け、時折じっと獲物を見詰める漁師のまなざしを思わせる。
 「人には会いたくないもう誰もくるな」「病院の深夜の灯が患者の命吸い上げる」
 やがて人生のつらさは自らががんに侵されるに到るが、そこでもなお冷徹でたじろがない視線でいようと悶える作者の姿は、殉教者の姿とも重なり合っていくかのように見えてくる。
 亡くなって14年目の句集出版だが、ぜひ手にとっていただきたいと思う。必ずや胸を打つものがあると信じている。
 三好 利幸 (『きやらぼく』会員)