2011年5月5日木曜日

きやらぼくの会とは

「きやらぼくの会」は三好草一先生等、数名の有志で鳥取県倉吉市で始まりました。しかし、残念なことに去る2003年12月草一先生は不帰の人となられました。
草一先生が亡くなられる2年前に書かれた文章を通して会の成り立ちと歴史を紹介します。


 昭和八年(一九三三年)、郷土の自由律俳句の先駆者河本緑石がこの世を去っている。氏はその頃倉吉農学校の教師だったが、学校では授業の合間に俳句を教え、外では華やかな文学活動をやっていたのを私は知っている。だがその没後は、火が消えたように誰も後を継ぐ者はなかった。昭和12年(一九三七年)、それではと立ち上がったのが、緑石の若い弟子の山根志能武で、彼を中心として出来たのが「あをぞらの会」だった。集まったのは七名、皆若く清新の気に溢れていた。然しその頃既に大陸では日本と中国の仲が怪しく、やがて戦争となり、戦時中は会も開店休業を余儀なくされていた。
 さて、さしもの戦争も終わり、軍から開放された日本のどの部門でも活動が盛んになり、その波に乗って私達の会も再建された。でも、七人のうち二人は亡くなり、一人は倉吉を去って四人となっていた。その四人で会の名も「ペガサス」と改めて出発し、「ペガサス」が「梨の花」に、そして「きやらぼく」と変わって今日に至っている。過ぎてみれば何でもないことだが、六十五年もの歳月は長く、その間遠い地からも多くの俊英の参加者もあった。もし私達の辿った道に何程かの足跡が残っているとすれば、その多くの人の協力によるもので、一人や二人の力で出来ることではない。 
 この頃、短歌や定型俳句の世界でも、若い仲間の少ないことを嘆いているが、その中で「きやらぼく」は、若い人の手で運営されつつあり、私はそれを誇りに思っている。この集もその人達によるもの、これは私達の脱皮する姿で、新しい門出と言ってよいだろう。昔井泉水先生に、鳥取は層雲の橋頭堡と言われた。私達はそれにこたえなければならない。     
               (2002年5月刊行「きやらぼく年間句集」より)

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